集団の人格っていうか

在日がどうとか、団塊がどうとか、そういうマクロ的括りで話すと、そういう括った団体自体が人格を持つように思えて、話を色々な方向にもっていきやすい(ex.**は頭が悪い、**はなんだかんだいって日本を発展させた、**は卑劣だ、**はコスイ、**は優秀だ、など)。

それは一種マジック、結論ありき誘導であって、殆ど意味がないのである。例えば、その手の評論を逆の結論に持っていこうと考えてみると、あっさりそういうことが可能なのだから。まあ何千人もの人を性格以外のファクターでくくればほぼカオス状態なので、性格付けなんてどうにでもなる。

個々の活動が積み重なって全体を形成するように、評論もわかった気になるマクロ的視点という麻薬に溺れず、個々の活動を積んで評論すべき。マクロ的人格に一定の傾向があるとみなすのは危険だし、仮にそうだとしても、そのマクロ的集団から外れた人を誤差として無視していいような性質の議論ではないからだ。