フィクションが読めなくなった

たまには全く関係ない話でも。
4年前くらいから、僕はフィクションに属する本を殆ど読んでいない。読んでいないというか読めなくなった。どういう身体の化学反応によってかどうか判定しかねるけど、丁度、転職して東京に出てきた辺りから駄目だ。たまにはと、本を買って、数行あるいは半分ほど読んでみても、以前のように物語の世界に入っていけない。物語の内面について考える気がおきない。主人公の気持ちの変化や、じれったい思春期的な心の動きなどがもう一万回上映した脚本ぐらいに飽き飽きして見えてしまうというか、なんだろう? シリアスフィクションという方式自体がもう、これ何回目のリサイクル品ですかみたいな感じを受けてしまう。
よく考えれば僕の場合、もう二十歳ぐらいの時点で既に中の話には興味を失っていて、文体そのものを楽しんでいる傾向があったので、さもありなん、かもしれない。幸運にも、音楽のほうはその文体(音楽センス)だけを楽しんでいても、多様なスタイルがあるので聴き続けている。ただ、やっぱり同様の理由なのか、ロックはほぼ駄目になった。

読書というものをどういう風に楽しんでいるかという解釈について、誰かが、結局読書は新しい体験を呼ぶものではなく、その内容と自分の体験を照らし合わせてその共鳴を楽しんでいるということだ、みたいなことを書いていたような気がするのだけど(脳内変換激しいかな)、どこかでその共鳴管が折れたのかもしれない。共鳴するものがないので、訴えたいものや内面的なものには興味が無くなり、文体、音楽でいえば音楽構成のみの、極めて表面的外形的な形式のみの執着になっていった。小説なんて、もう文体に新しさなど殆どないので、読めなくなったのかもしれない。

おっと。表面的外形的執着=オーオタ、というオチだろうか?